秋田大学競技スキー部OB会
AKITA UNIV.SKI TEAM

プロスキーヤー・三浦雄一郎氏(82歳)、たざわこスキー場を滑走す
H27.2.16晴
2月28日に国内初のモーグル国際大会が開かれる予定で、その応援の為、黒森山コースを試走した。また、その他のコースも滑り、気づいた人たちはその後について滑った。世界 的なプロスキーヤーとの出合は思いもかけないことで、やや興奮気味であった。


猪谷千春氏(83歳)の講演 「目標を決め」て「工夫と努力する」こと
H27.2.16(月)晴 仙北市民会館
2月28日-3月1日に、たざわこスキー場でモーグル国際大会が開かれる予定で、その応援に三浦雄一郎氏と共に秋田に来て講演した。たざわこスキー場のレストハウスで昼食にカレーライスを食べ、その後、仙北市民会館で、中学生400人、中高年の人たち300人に、80歳で現役を引退するまでの輝かしい人生を、誇らず、衒わず、淡々と分かり易く語ってくれた。さすがは、59年前の冬季オリンピック・銀メダリストで、80才迄IOC副会長を務めた、偉大な方だと納得した。80歳になってパソコンソフトのパワーポイントを覚え、今回の講演に使っていることだった。当に、「工夫と努力」を実践している。

終戦の僅か8年後に留学したダートマス大学は、アメリカ東北部で独立13州の1つニューハンプシャー州にあり保守的な場所で、文武両道で認めてもらう為随分「工夫と努力」をし、680人の卒業生で唯一人ダートマスカップを授与したことが、銀メダルよりも嬉しかったとのこと。
努力の例:左右どちらでも箸が使え字がかける 椅子に座った格好で本を読む(30分間) 腕立て伏せをしながら本を読む リフトに乗りながらメモ帳を暗記する 等々
三浦雄一郎 講演 概要
希望の軌跡 ~80歳エベレスト登頂~
2013年5月、三浦雄一郎は3度目の世界最高峰エベレスト山(8,848m)登頂に成功し、世界最高年齢(80
歳)での登頂記録を樹立しました。
70歳(03年)と75歳(08年)。過去に、70歳代で2度のエベレスト登頂を成し遂げましたが、翌09年に
スキー場で骨盤と左大腿骨の付け根を骨折する大怪我を負い、76歳からの完全復活は、ほぼありえないと
思われました。 しかし、エベレストへ向けた強い意志と、山への憧れが驚異的な回復をもたらし、半年
後にはトレーニングを再開。2度の不整脈手術を乗り越え、3度目となる80歳での登頂に挑みました。
標高8,848m、酸素濃度は平地の4分の1。地球上で最も宇宙に近いエベレスト山頂で、80歳の三浦雄
一郎の体力年齢は150歳になるともいわれ、山頂を極めるには不整脈の克服のみならず、人類の可能性
の扉を開くべく、究極のアンチエイジング(抗加齢)の試みとなりました。そして様々なハードルを越え、
遂に2013年5月23日、80歳と7ヶ月にして、エベレストの頂上に辿り着きました。山頂からの第一声は
「最高の気分だ。疲れたけど、80歳でもまだまだいける。ありがとう。最高の宝物を授かった」・・・と
いうもの。
三浦の挑戦の原動力は、飽くなき「好奇心」と夢を追い続ける心でした。
冒険家として若い頃はスピードスキー競技、世界7大陸最高峰からの滑走・・・など様々な世界記録をうちたてた三浦雄一郎ですが、60歳を境に、身体と心に脂肪がつき、いつのまにか陥っていた「メタボリッ
ク症候群」。人生においてリタイヤを意識したそのときに、101歳まで大いなる探求心をもってスキーを
続けていた父・敬三、そしてオリンピックで活躍していた息子・豪太らの姿を見て再び心にスイッチが
入ったのです。サミエル・ウルマンの「青春」の詩にあるように、<青春>は心の在りようと同時に、「生
きがい」を持つことによって身体も若返ることができる。老いは避けられないものではありますが、人生
と向き合い、目標を持つことによって元気に明るく生きる工夫と努力。それぞれの目標<エベレスト>
を持つ意識と、家族と人の絆の大切さ、そして新たな挑戦について語ります。
略歴 肩書き:(プロスキーヤー、クラーク記念国際高等学校校長)
1932年青森市に生まれる。北海道大学獣医学部卒業後、1964年イタリア・キロメーターランセに日本人
として初めて参加、時速172.084キ口の当時の世界新記録樹立。 1966年富士山直滑降。1970年エベレス
トサウスコル8,000m世界最高地点スキー滑走(ギネス認定)を成し遂げ、その記録映画 [THE MAN WHO
SKIED DOWN EVEREST] はアカデミー賞を受賞。1985年世界七大陸最高峰のスキー滑降を完全達成。
2003年70歳、2008年75歳、そして2013年80歳にて3度にわたり世界最高峰エベレスト山(8,848m)登
頂を果たし人類の新たな可能性を押し広げ世界最高齢登頂記録を更新するとともに、次男で元オリン
ピック選手の豪太との2度にわたる親子同時登頂の世界記録も樹立する。プロスキーヤー・冒険家として
だけでなく、全国で1万人以上が在籍する広域通信制高校、クラーク記念国際高等学校の校長としても活
動している。
記録映画、写真集、著書多数。
賞:プロスポーツ大賞殊勲賞、スペイン山岳会名誉会員、アカデミー賞長編記録映画部門、世界山岳探検
会議特別会員、ワシントン州名誉市民、ニューヨーク映画祭ゴールデンイーグル大賞(南極)、国際探検
映画祭・冒険探検特別賞、内閣総理大臣表彰、フランス政府スポーツ青少年功労賞金賞、スープラバラ・
ゴルカ・ダクシナ・バフ勲章(ネパール政府)、青森名誉市民、弘前市民栄誉賞、青森名誉市民特別功労
賞、青森県民栄誉大賞、深川市民栄誉賞、日本スポーツグランプリ賞、北海道民栄誉賞、東京都名誉都
民 他
※2013年6月、「三浦雄一郎記念冒険家大賞」日本政府により創設される。
青春の詩
マッカーサー元帥が座右の銘としていた、無名の作詩家サミエル・ウルマン(Samuel Ullmann)
氏(アメリカ)の『青春(Youth)』の詩が見出された経緯について少し説明しましよう。サミエル・ウル
マンの「青春の詩」をじっくり、味わってください。ご希望の方はダウンロードして、詩の部分を、
ワープロソフトで縦書き筆字に変換し、印刷されると又一味違ったものになります.
経緯
二次大戦終戦後、1945年9月27日に昭和天皇が、日比谷の占領軍総司令部にマッカーサー元
帥を訪問し、天皇が始めて民間人と並んでツーショット写真を撮られた部屋の壁に掛けられていた
詩が、この青春の詩(英文)であった。
マッカーサー元帥は、友人のJohn W.Lewis氏(コーネル大学教授)よりこの詩を贈られ、座右の
銘として何時も執務室に飾っていた。しかし作詩者のサミエル・ウルマン氏は、当時は全く無名で、ア
ラバマ州の人だと言うこと以外は全く知られていなかった。
この詩を、ある日本人(岡田義夫氏説が有力:明治24年埼玉県生れ元「東京毛織OB」)が見つけ、感
動し、漢詩調に翻訳した。これが後に松下幸之助氏の眼に止まり、あるインタービューでこの詩の事を
紹介し、雑誌に掲載され一躍有名になった。
又、ロバート・ケネディーがエドワード・ケネディーヘの弔辞にこのウルマンの詩の一節を引用したの
も有名な話である。
その後、色々な人が、サミエル・ウルマン氏について調べ、近年になり、アラバマ州のバーニングハ
ム市に、ウルマンが晩年に過ごした家がみつかり、彼の作成した他の詩も発見された。JASA(日本
協会)が、1993年に日米親善事業の一環として、その家を買い取り「ウルマン記念館」として運営し
ている。
日本で有名になり、アメリカにお里帰りした心温まる話である。下に漢詩と原文と両方を掲げるが、
漢詩調の訳文は素晴らしい。
「青春の詩」は、ウルマンが70代で書いたものです。彼は1840年4月13日、ドイツのヘヒンゲンでユダヤ人
両親の長男として誕生。両親とともにアメリカに移民し、後半生をアラバマ州バーミングハムで過ごしたウルマ
ンは、教育者として、またユダヤ教のレイラビ(精神指導者)として、実業家として幅広く精力的な活動をし晩年
になって数編の詩を作りました。実はこの「青春の詩」は1922年に家族が発行した詩集「80年の歳月の頂
から」の巻頭の詩です。ウルマンはこの取集が発表された2年後の1924年3月21日84歳でこの世を去りました。
この詩は「リーダーズダイジェスト」が1945年に”HOW TO STAY YOUNG”のタイトルで掲載しました。そし
て、1955年、故マッカーサー元帥がロスアンゼルスの講演で「青春」を引用。 1958年、森平三郎が群馬県桐
生の東毛毎夕新聞に「岡田義夫訳」の「青春」を紹介したことによってこの詩が次第に広がりはじめました。そ
の後、1982年、宇野収氏が日経新聞に「青春」の一部を紹介、大きな反響を呼びました。
1985年、この詩に心を深く打たれた宮沢次郎氏(当時トッパンムーアー㈱社長)によって「青春の会」が発
足、財界産業界のトップたちの共感を呼び、静かにして強力な活動がはじまりました。その2年後、財界人
200名による「青春」と作者をたたえる祝賀会が開催。ウルマンの遺族も来日し、1992年サミュエル・ウルマン
賞が制定されました。そして各界から浄財が募られ、ゆかりの地バーミングハムにサミュエル・ウルマン記念館
の開館となったのです。
「ウルマン作品と前橋文学館」
1998年5月23日から6月28日までの1ヶ月余にわたって、群馬県蔑橋市前項文
学館にてサムエル・ウルマン展が開催され、展示初日のオープニング・セレモニーには、
ウルマンゆかりの米国アラバマ州バーミングハム市長も来館されたとのことです。
この前橋文学館には詩入・萩原朔太郎とウルマンの作品が常設展示されているそうです、
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サミエル・ウルマン(Samuel Ullman, 1840年-1924年)は、ドイツヘツヒンゲン
(http://de.wikipedia.org/wiki/Hechingen)出身のアメリカの詩人。ユダヤ系。
青春
サミエル・ウルマン
青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯儒を却ける勇猛心、
安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。
歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ。苦悶や、狐疑、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。日く「驚異への愛慕心」空にひらめく星晨、その輝きにも似たる事物や思想の対する欽迎、事に處する
剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。
人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる
人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる
希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる
大地より、神より、大より、美と喜悦、勇気と壮大、偉力と霊感を
受ける限り人の若さは失われない。これらの霊感が絶え、悲歎の白雪
が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至
ればこの時にこそ大は全<に老いて神の憐れみを乞う他はなくなる。
原文 YOUTH
Youth is not a time of life-it is a state of mind; it is a temper of the will, a
quality of imagination, a vigor of the emotions, a predominance of courage
over timidity, of the appetite for adventure over love ease.
No body grows only by merely living a number of years; peoples grow old
only by deserting their ideals. Years wrinkle the skin,but to give up enthusiasm wrinkles the soul. Worry,doubt,self-distrust,fear and despair- these are the long,long years that bow the head and turn the growing spirit back to dust.
Whether seventy or sixteen, there is in every being's heart the love of
wonder, the sweet amazement at the stars and the star-like things and
thoughts, the undoubted challenge of events, the unfailing childlike appetite for what next, and the joy and the game of life.
you are young as your faith, as old as doubt ;
as young as your self-confidence,as old as your fear ;
as young as your hope, as old as your despair.
So long as your heart receives messages of beauty, cheer, courage,
grandeur and power from the earth, from man and from the infinite so long as your young.
When the wires are all down and all the central place of your heart is
covered with the snows of pessimism and the ice of cynicism, then you are
grown old indeed and may God have mercy on your soul.